死神の手、自殺、賛美、嫌悪
こんばんは。
適当に書いていきます。
個人的な意見や見解をだらだら書いているだけです。
同意を求めるつもりはありませんし、別に読んでいただかなくても結構です。
ちょっと良くない言い回しがあります。
りゅうちぇるさんが亡くなりましたね。
悲しいことです。
僕はあの人(ご本人がどういう性自認かわからないのであえてこう表現させていただきます)に対して、めちゃくちゃ強い思い入れがあったとか、そういうわけではないけれど、それでも思うこと、感じることはあるので、思ったことをつらつらと、脈絡なく書いていこうと思います。
あの人の最初のイメージは奇抜なファッションのキラキラふわふわした人、でした。
そして僕があまり意識していないうちに結婚されて、お子さんが生まれて、離婚をされて、そして亡くなってしまった。
僕のあの人に対する理解や認識はあまりにも浅く薄いけれど、深く濃くしようとは思いません。
きっと僕が自分で傷つくだけだから。
あの人は、とても強い人だったんだと思います。
自分が『完璧な男性』ではないことを、子供を産んでくれたパートナーに打ち明けることは、とても勇気のいることだと思います。
きっとあの人は、世に言う完璧な男性でも、完璧な女性でもなかったんだろうな、と僕は勝手に思っています。
どういう状況でどういう心境だったかはわかりませんが、愛する女性と子を成せたのですから。
その後に、愛する女性に自分が秘めていたものを打ち明けることは、相当な勇気が必要だったでしょう。
本人たちがどう思っているかはわからないけれど、新しいパートナーのあり方だな、と思っていました。
あの人の外見が変わり始めて、服装やメイク、髪型、体型が女性らしくなっていった時、すごいなと思いました。
メディア露出がある中で、デリケートな問題かつマイノリティに属するとされるそういうことをどんどん公開していく。
常にポジティブな、優しくて暖かくて柔らかい言葉を発信していく。
だけど、つらいことも多いだろうな、と思っていました。
その矢先の出来事でした。
速報を見て、僕がまず思ったのは、『やっぱつらかったんだなぁ』でした。
大っぴらにはされていなくても、誹謗中傷があったことは想像に難くないからです。
あの人がいつも前向きな発言をしていても、きっとそういうものはある。
前向きな発言をして、明るく生きているように見える人にも、当然のように悩み苦しみはあるし、悩み苦しみがあるから優しくできる。
そして、そんな人にも、死神の手は突然に忍び寄ることを僕は知っているからです。
僕は何度か自殺未遂をしたことがあって、一番酷かったのがカフェインのODでした。
今でも覚えています。
その日は金曜で、暗黒のような会社からいつもよりかなり早く上がれて、むしろ気分は良い方でした。
いつも通り、該当の少ない田んぼの中を音楽を聴きながら歩いていました。
まっすぐ帰れば家まで1時間弱の距離です。
その途中、ここだけは感情が欠落しているというか、なぜこうなったかわからないのですが。
道沿いの自販機の灯りにふらふらと吸い寄せられて、お茶を買って、途中にある公園のベンチに腰掛けて。
お茶のペットボトルの蓋を開けて、当時会社で飲むために小分けにして持っていたカフェインの錠剤を、全て飲み下していました。
ちなみに所持していた量はそこまで多くなく、200mgの錠剤が20錠ほどだったと記憶しています。
20錠を一度に飲み込めるわけもないのに、本当に、気付いたら全て飲み下した後だったのです。
気がついてから、カフェインの作用で急激に気分が高揚して、よし帰ろう!と思って歩き出したのですが。
そんなことをすれば当然カフェインのまわりが早くなり、体調はどんどん悪化していきます。
今の同居人が迎えに来てくれて、大量の飲み物を用意してくれて、吐きたいだけ吐かせるというセルフ胃洗浄のような処置をとってくれたことで、重度の脱水程度で済みました。
が、吐いても吐いても、口に何か入れるたびにまた吐き気が込み上げて、吐き過ぎて身体中の筋肉が悲鳴を上げて、動悸がして眠れなくて、という状態が二、三日であれど続いたのはつらかったです。
当時の家族にも心配をかけてしまいました。
ヨーグルトを大さじ二杯ほど食べたけど吐いてしまったり、目が回って立てないから四つん這いでトイレまで移動したり。
りんごが食べたい、と言って祖母が剥いてくれたりんごを食べて、吐かずに済んだ時、やっとこれから解放されるんだ、と思いました。
たった三日間で私の体重は五キロ以上(もちろんほぼ水分ですが)落ち、しばらく戻らなかったので、服のサイズが合わなくなりました。
体重はだいぶ戻りましたが体型はあまり戻ってくれなかったので、今でも洋服選びには苦戦しています。
僕はあの時のあの現象を、「死神の手」と呼んでいます。
死にそびれたのに何を言うか、と思われるかもしれませんが、全く意識していなかったのに、むしろ気分はいつもより良かったのに、気付けばそんなことをしていたわけですから。
まるで当時の僕の肩に、ぽんっと死神の手が置かれて、僕はそれに操られるようにふらふらと死のうとしてしまったんじゃないか、と。
それくらい、今でも不可解なのです。
これを読んでいる人がいるかはわかりませんが、もし読んでいる方がいればきっとお気づきでしょう。
『暗黒会社』と言う表現や『カフェインの錠剤を持ち歩いている』と言う時点で、すでに当時の僕はまともではなかったのです。
けれど僕はそのことに全く気づいておらず、むしろ「カフェイン飲めば昼間バリバリ働けて、切れた夜は眠れるし、コーヒー飲むより錠剤の方が効率的じゃない?」くらいに思っていました。
当時から不眠の兆候があって、眠れないと昼間の仕事に支障があるし、という理由でコーヒーを飲みまくるようになり、コーヒーがチルドカップのエスプレッソになり、エスプレッソが錠剤になるまで、時間はかかりませんでした。
今ならわかりますが、感覚が麻痺していたんですね。
当時はそれでも、理不尽なことがあっても、忙しくて朝六時に家を出て日付が変わってから会社を出て、途中のコンビニで買ったおにぎりを食べながら1時間歩いて帰宅して、入浴等を済ませて三時ごろに寝る、という生活に慣れていたし悩みがゼロとは言えないけれど、それでも明るく楽しく仕事していたんです。
「死神の手」で死に切れなかった僕は、幸か不幸か現実を見る目を取り戻して、めちゃくちゃ紆余曲折ありましたが暗黒会社を辞め、親族全員と縁を切り今に至るわけですが。
だから、有名な人が突然亡くなったと、どうやら自殺らしいとニュースで見ると、ああ、死神の手に出会ってしまったんだな、と僕は思うわけです。
悩み踠き苦しんで、それでも明るく生きているように見えた人が急に死んでしまうと、僕は僕の肩に昔置かれた死神の手を思い出すんです。
ここでなんの脈絡もなく話は変わりますが、人が亡くなってから「あの人は素晴らしい人だった」って言うの、やめませんか。
その人が素晴らしい人だということなんて、その人を好きな人ならみんなが知っています。
普段はメディアであまりそういう「この人は素晴らしい」なんてことは言わないのに、亡くなると急に「素晴らしい人だった」と言い始めるのにはとても違和感があります。
正直、浅ましいなとも思うし、軽く、いや軽くないかもな、嫌悪も感じます。
その人のことが好きな人たちやファンは、その人が素晴らしい人だなんて前々から知っているんです。
だから好きなんです。
亡くなった途端に「素晴らしい人でしたよね」なんて言われても、僕は白けてしまう。
亡くなったからって急に褒めるのやめましょうよ。
なんなんですか?
なんか変な罪悪感でもあるんですか?
その人を生きてる間に肯定できなかった罪悪感みたいな。
そんなもん自分の胸に秘めといて好きなだけ自己嫌悪に浸ってくださいよ。
少なくとも僕は、亡くなってすぐに、急に故人を褒め称えるのを目にしたり耳にするのは好きじゃないです。
生きてるうちに言え。
そんなんだから死んじゃうんだよ、って思ってます。
言葉が悪いな。
でも実際そうだと思うんですよ。
亡くなってしまってから「素晴らしい人だった」「悲しい」「寂しい」「会いたい」って言ったって実質意味なんてないし、ただの自己満足でしょう。
生きているうちに「あなたは素晴らしいね」「あなたが大好きだよ」「また会おうね」って伝えていれば、亡くなってしまうことは避けられたかもしれないのに。
完全に周囲が悪いとは言いません。
でも悪くないとも言いません。
本当に好きなら、本当に素晴らしいと思っているなら、本人に伝えなきゃ意味ないんです。
人間にはテレパシー機能なんて備わってないし、各個人の思考をクラウドで共有、閲覧できるわけでもないんだから、言葉で伝えなきゃ意味ないんです。
したかもしれないけれど、結局は足りてなかったか、信頼されてなかったからその人は亡くなってしまったわけで。
だからこそ亡くなった後途端に「素晴らしい人だった」と繰り返す報道を見るたびに嫌気がさすんです。
纏まりがないな。
でも書くのに疲れたのでこの辺にしておきます。
では。