名状しがたい日記のようなもの

適当なことを適当に書く感じのあれです(愚痴多め)

産まれてくる事への同意、安楽死について

消すかもしれないやつです。

こんばんは。
なんだかなんとも言えない気持ちです。
はてな界隈でこの議論を納めずに、もっと大きなところで、
もっと沢山の人に考えてほしいことだと思いました。

出産に伴って、生まれてくる胎児に同意はとってあるのか、
そうでないならなぜ出産するのか、という記事から波及して、
生まれてきたくなかった人には安楽死を選択できるようにすべき、
との記事を読みました。(めちゃくちゃはしょってますが。)

これね、全くもってその通りなんですよ。
私が前から言いたかったこと殆ど言ってくれたのでは?

まずね、生まれてきたかった人はそれでいいです。
生きていたい人は生きていけばいいです。
それに文句を言うつもりは少しもありません。
とっても良いことです。
でも、そうでなかった人はなぜ生き続けなければいけないのか?
どうして生き続けたくないという意思は尊重されないのか?

「生きていれば、頑張れば良いことがあるよ」だとか、
「死ぬなんて勿体ない、生きたい人がいるのに」だとか、
もっともらしいことを言う人が大半ですが、
『生きたくても生きられないこと』が不幸なら、
その逆もまた不幸ですよ。

ねぇ、考えてみてくださいよ。
酷い言い方をしますが、生きたくても生きられない人は、
苦しむ期間はそう長くはないでしょう。
逆はどうでしょうね?
生きるのをやめたくてもやめられない人は、いったいいつまで、
どれだけの期間苦しめばいいんでしょう?
病気だとか不慮の事故で、
自分の意思と関係なく死ぬことは誰も咎めはしないのに、
自分の意思で死ぬことはなぜそんなに咎められるんでしょう?

自殺や自殺未遂をした人が、いったいどれだけいるでしょうか。
未遂に関しては私もその中の一人ではありますが、
そういった行為に及ぶのにはそれなりの理由があるんですよ。
もう生きていたくない、死んでしまいたい、
そう思うような苦しい生活を、
なぜ続けなければいけないのでしょうか?
誰かがその生活を変えてくれますか?
助けが得られないのは助けを求めないからですか?
求めても助けが得られなかったら、
それでもいつ得られるか、得られる確証もない助けを待って、
生き続けなければいけないんでしょうか?

安楽死、賛成です。
私は生まれてきてしまったので、
死にたくなるような環境で生き続けたくなくて、逃げました。
逃げるまで20年以上かかりました。
その間助けを求めたことはありましたが、得られませんでした。
その間ずっと、沢山の辛く苦しいことがありました。
逃げてから二年近く経つ今でも、トラウマのフラッシュバックや、
追求の恐怖に怯えて過ごしています。
そういう意味では今も苦しんでいます。
私が死にたいと思い始めた三歳頃それが叶っていたら、
その後の溢れるほどの苦しみはなかったはず。

色々な感情がない交ぜになって、文章に纏まりがないですね。
私が言いたいことは本当はすごく簡単なことです。
本人の意思でない不慮の事故や病気を除いて、
生きたい人は生き、そうでない人は生きるのをやめる、
選択の自由が必要だと思うんです。

もちろんそれに付随して、
苦痛のない、迅速な死を得るための方法や、
それに必要な制度や施設など必要になると思います。
資産含め私物や結んでいた契約をどうするかとかもね。

それを、もっと積極手に、大々的に、議論してほしいんです。
このままでは生まれてきたくなかった、生き続けたくない人は、
苦しみながら生きるか苦しみながら自ら命を絶つか、
苦しい苦しい二択しかありません。
少なくない数の人が後者を選んで、
苦しんで生きた末に、さらに苦しみながらこの世を去ります。

生きたくて生きて死を迎えた人がそうであるように、
生まれてきたくなかった、
生き続けたくない人が死を迎えるときも、
誰にも批難されずに死を迎えたいと思うのです。

いつか、ではなく一刻も早く、そうなりますように。