名状しがたい日記のようなもの

適当なことを適当に書く感じのあれです(愚痴多め)

感受性の話のはずだったのに

こんばんは。

適当に書いていきます。

 

僕は昔、感受性豊かだと色んな人に言われました。

自分でも、僕は他の人が気にしないような、

小さな幸せを探すことが上手だった気がします。

過去形なのは、今はそうではないから。

僕は今、感受性豊かではない。

 

僕は昔、冬が好きでした。

僕は残暑が厳しい、暦上は秋の生まれですが、

暑いのなんて糞食らえと思っていて、

いや今も思ってるんですけど。

冬は着込んだり布団や風呂に入ったり、

温かい食べ物を食べれば暖が取れるし、

通年通して行うそれらがより幸せに感じたから。

だから僕は冬が好きでした。

夏は全裸になっても暑いしね。

 

冬の寒い日の、いつもより澄んだ空気。

吐く息が白いとそれだけで嬉しいと思ったり、

たまたま歩いたところで、

霜柱がざくりと音を立てたり、

ザクザクと踏むのが好きな僕のために、

霜柱を踏まずに残してくれる人がいたり。

冷えた身体で帰宅して、温めた湯に浸かった時、

暖かなお湯の熱で冷えた身体の血管が拡張して、

手足の先がじんと強張るような感覚がしたり。

湯気の出る熱いお味噌汁が、

口から喉や食道を通って胃にまで、

熱をもたらすのを感じたり。

冷え切った布団が入り込んだ僕の体温で、

少しずつ温まっていってぬくぬくになったり。

僕は、そんなことで幸せを感じていた。

 

僕は昔、幸せを感じるのが上手だった。

僕はもう幸せを感じるのが下手になってしまった。

なんでだろう。

僕は、食べるのと風呂に入るのと寝るのが好きな、

至極単純明快な人間だった。

今の僕は、食べるのもさして好きではないし、

風呂は嫌いではないけど面倒だと思ってしまうし、

寝るのは寝れたらいいよねって思ってる。

僕はすっかり変わってしまった。

 

僕は誰かといる時、その対誰か用の僕になると、

以前この日記にも書いたけれど。

もしかしたら昔の単純明快で幸せな僕は、

誰かのための僕だったのかもしれない。

食事と温かい風呂と布団さえあれば幸せな、

単純な僕を、誰かと僕が、作っていたのかも。

誰かなんて、わかりきっているけれど。

 

僕は今朝、感受性が豊かではなくなったことに、

感受性は鳥や魚の群れのようで、

僕から大多数のそれが逃げてしまったと感じた。

まるで渡り鳥のように、

いつか戻ってくるかもしれないと思ったけれど、

もし戻ってきたとして、きっとまた旅立つだろう。

だって戻ってきたそれもきっと、

僕だけのためのものじゃなくて。

誰かと僕のために作られた感受性だから。

 

今朝の時点では僕は、気付いていなかった。

僕だけのものじゃないなんて思いもしなかった。

だけど、考えをまとめようと書いているうちに、

気付いてしまったんだ。

あれは僕のじゃなかったって。

少し悲しかった。

気付きたくなかったな、と思ってます。

 

うん、気付きたくなかった。

僕は単純であればあるほど幸せでいられると、

そう思っているので。

出来る限り単純な人間でいたいんですけど。

今日の気付きでまた僕の単純さが、

少し減ってしまったような気がします。

悲しいなぁ。

 

そんな感じでした。

では。